弁護士法人 荒井・久保田総合法律事務所

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弁護士 小田 康夫
2017.12.06

挑戦に必要なのは覚悟じゃない

 北海道の東のほう、釧路市と知床(しれとこ)を線で結んだちょうど中間くらいに、中標津(なかしべつ)町という街があります。そこにある中標津高校の偏差値を調べてみると、普通科で41だそうです。東京という大都市から遠く離れて日本の隅っこに位置する上、北海道の中心都市である札幌から見ても東端に近い場所にある高校ですから、教育資源も中心都市に比べて乏しく、全国平均以下、北海道平均以下の学力水準になるというビハインドがあるように思います。

その高校が私の母校です。

 突然、私が自分の母校を紹介したのは、司法人口の減少を食い止めるために偏差値の低い高校からでも弁護士になれることをアピールしたいのではなく、また、弁護士になるためにそれだけ努力したという自分の自慢話をしたいわけでもありません。

 実は、先日、釧路センチュリーキャッスルホテルにて、小規模ながら結婚のご報告をさせていただきました。宴の最後に「新郎謝辞」という時間をいただき、少しだけ自分の出生から遡って客観的に自分の生い立ちを振り返る機会がありました。時間の都合もあり、かつ、気恥ずかしさもあり、あまり振り返ることができませんでしたので、この場を借りて付け足します。師走ですので、のんびりみかんでも食べながら、時間のあるときにお読みいただければ幸いです(長いです)。

 自分でいうのも変な話ですが、私は4人兄弟の末っ子でして、小さい頃から、家族や親戚からは甘やかされて育てられたように思います。それもあってか、何事にもポジティブに考える性格に育ちました。中学生の頃、「大学まで行ってなんでそんなに勉強したいの?」と周りから質問を受けることが多かったにもかかわらず、当時の私は、ぼんやりと「弁護士になりたい」と考えていました。
 当時は、まだ司法制度改革も構想段階で、司法人口を増やそうという話が始まりかけていた時期でしたが、まだその内容が明確に決まっておらず、相変わらず「司法試験の合格率は3パーセント」だと言われていた時代です。
 普通、常識的に考えれば、「典型的な田舎の学校」から、弁護士になれるわけない、と考えるはずです。それでもなぜか、私は、「弁護士になりたい」という考えを持っていました。そのような考えを持つこと自体が、当時の自分の「認識の甘さ」と「ポジティブ」な性格に起因するものと、今は分析しています。

 地元の中学校を卒業した後、中標津高校に進学しました。

 釧路の進学校に進む選択肢もありましたが、中学校のクラスメイトは12名程度の小さな学校ですから、「井の中の蛙」で、難関の公立高校を無理して受験して、落ちたら大変です。父は「鶏口となるも牛後となるなかれ」と言って、釧路の進学校に進まず、地元の高校に進学した私の選択を応援してくれているようでした。なお、中標津と釧路は距離にして約90キロ離れていて、公共交通機関も発達していませんから、釧路の高校に進学すれば寮生活となります。中標津高校に行くのも実家から約30キロ離れていますが、なんとかスクールバスで通える範囲でした。

 繰り返しになりますが、中標津高校の偏差値は、普通科で41です。中標津高校にいる学生全体から見ても、大学に進学するのは一握りですから、当然、大学進学に特化した授業が展開されるわけではありません。周囲からも「大学まで行ってなんでそんなに勉強したいの?」と質問を受けるぐらいですから、周囲の空気感としては、日常的に勉強は一切しない、という学生の方が多数です。
 当然ながら、進学校の「みんな普通に大学に行きますよ、一定レベルの勉強はしていて当然ですよ」という空気感は、微塵もありません。私の周囲には、大学進学を目指す学生はいましたが、勉強を一緒にしようという仲間はいませんでした。高校卒業後、私は一年浪人して、札幌で大学生活を送ることになります。

 ただ、私は非常に幸運に恵まれていました。

 4人兄弟の上の3人は誰も大学に行きませんでした。
当時、父は「酪農家にはバブルもバブル崩壊もない」と言っていましたから、両親にも多少の経済的な余裕があった時期だったのかもしれません。両親は私に多く教育資金を掛けることができました。試験合格までの期間を支え続けてくれた両親がいなければ、私が今の仕事に就くこともなかったでしょう。

 司法試験については、先ほどの「ポジティブ」な性格がアダとなったのか、何度か不合格となりました。大学生になった当時の私も、「認識は甘かった」のです。司法試験に合格するまでの数年間は精神的に追い詰められることが多かった時期でした。「司法試験あるある」ですが、試験に合格しても数年間は、「やっぱり自分は試験に落ちていて、もう一度、試験を受けなければならない夢」を何度も見ました。朝起きて、5分くらい経った後に、「ああやっぱり自分は試験に合格している、試験を受けなくて済む」と今の自分の立場を再確認したりしました。

 ただ、このような経験を通じて得た学び(知識も含めてその他もろもろ)が、今の仕事をする上で私の大事な一部になっていることは間違いありません。

 学生時代を振り返ると、多くの優秀な先生、先輩や友人、後輩に恵まれていました。小中学校時代の仲間は、少数精鋭で結束が強く、今でも同窓会を毎年するメンバーですし、高校時代の友人は今でも一緒にゴルフに行ったりします。大学時代の先輩や友人、後輩がいたからこそ、辛く長い受験生活を、楽しく一緒に乗り越えることができました。
 また、この仕事を始めた後も、業界の内外を問わず、多くの方に支えられてきました。結婚式にも多くの方にご出席いただき、直接、お礼を言うことができましたが、会場等の都合もあり、会場に呼ぶことができなかった方にもこの場で感謝を伝えられればと思っています。今まで出会ったすべての人から学びを得て、今の自分があります。

 これまでの経験を通して感じるのは、私は非常に幸運に恵まれていた方だという点です。例えば、小学校の時に両親が離婚していれば(当時、小学生だった私から見ても、両親の離婚の危機は何度かあったように思います。)、大学進学すら諦めていた可能性もあったと思います。仮に上の兄弟全員が大学に行っていれば、少なくとも私が大学院に進学することはなかったでしょう。今振り返ると、私が司法試験に挑戦し、合格し、この仕事に就くことができたのは、多くの偶然が重なっていたということです。そして、その挑戦を支えていたものは、周囲の環境、特に精神面でも、経済面でも支えてくれた両親の影響が大きいという点です。今振り返ると、私の数度の挑戦に対して、いつも両親は私の選択を批判せず、温かい眼差しで応援をしてくれていたように思います。

 挑戦に必要なものは、何か。おそらくそれは「覚悟」なんていう、メンタリスティックで、かつ、曖昧なものではないことは間違いないでしょう。
 挑戦に必要なのは、経済面でも精神面でも支えてくれる両親やそれに代わるべき仕組み・制度だと思います。たまたま地方に生まれて、たまたま貧困家庭に生まれて、たまたま両親が離婚してしまったとき、それでも、子どもがやりたいことに挑戦できる仕組みがあれば、多くの挑戦を支えることができます。現状、この国には、まだまだ失敗したら最後、挑戦をすることをあまり歓迎しない風土や仕組みが残っているように思います。
 そんな風土や仕組みを変えるにはどうしたらよいか、まだまだ私も挑戦することは多そうです。