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弁護士 小田 康夫
2020.09.09
2020.09.09
母校の中標津高校の高校生に向けて語る事
先日、ハラスメント対応について、経営者向けの講義をしました(講義内容は前回のコラムに→http://www.ak-lawfirm.com/column/1226)。講義終了後、中標津高校の先生から「ぜひうちでも何か講義をしてもらえませんか」というお話がありました。中標津高校は私の母校ですが、正直、いきなり高校生に向けて話なんてできません。20年前の当時、私が高校生の時に知っていたら良かったことって何だろうと考え、まだ実現していない「高校生を前にした講義しなきゃならなくなったら何を話すかメモ」をこの場を借りて、まとめておきたいと思います(長いです)。テーマは「問題解決の方法論~『考える』って何だろう」です。
良くテレビで、「●●は正しい」とか、「●●は間違ってる」という話がでてきます。それが実際にどうか。どう判断したらよいか。皆さんが今後、就職した現場でも、「ある人は、これが正解!」といい、また別の人は、「これは間違い!」という場面に出くわすでしょう。そんなとき、どっちの意見が良いか、はたまた、第三の意見を出すか。今後、職場などで意見を求められたとき、皆さんが、決断を下すことが必要となります。方法論としては、複数あります。まず、考えられるのは、「①信頼できる人に聞く方法」です。この方法は控えめに言って最善解ではありません。ある分野に秀でている人でも、あなたが「今、知りたい問題」に適切な意見をくれるかは分かりません。話はそれますが、人にはバイアスがあります。目に見えない偏向性、言い換えれば、自分の判断が、知らず知らずに自分の思い入れのある方向に引っ張られる現象です。特に問題なのは、それがその人自身も気が付いていない事。バイアスはすべての人にあります。私にもそうですし、どんな人でも、そうです。昔、天動説が唱えられ、ガリレオが地動説を唱えても、天動説の学者は結局、自説を変えませんでした。本来、科学的な思考ができる人でも間違いを起こす、人類はバイアスからは逃れられないのです。客観的な正解のある物事についても人は(簡単に)騙されてしまうのです。そう考えると、正解のない物事についてはより慎重になるべきでしょう。(フェイクニュースを含む)「信頼できそうな人の話」というのは、将来、あなたたちの社会を苦しめるかもしれません。昔よりSNSの発達した現代、そして更に発達する将来は、その影響はより強く、あらゆる方面に(悪)影響を及ぼすでしょう。
「信頼できる人に聞く。」は少なくとも最善解ではないことは分かりました。じゃあどうしましょう。「②データを集める」という方法論はどうでしょうか。「●●は正しい」「●●は間違ってる」という双方のデータを集めて検証するやり方です。データが適切なら最善解を導けるかもしれません。しかし、データ至上主義には、落とし穴があります。データはどこまで調べても、無機質な情報の集合体でしかありません。データはデータ。数値は数値。そこに、結論として出す判断の根拠となる「解釈」や「評価」「価値判断」が加えられているものではありません。むしろデータ至上主義は厄介な副産物を生みます。それは、いわゆる「統計のウソ」と呼ばれる、データの見方を(故意に)誤らせる手法が介入することが多いことです。古典的な方法としては(ア)円グラフの一部を大きくしたり、(イ)棒グラフの数値に中略を加えたり、するものがあります。(ウ)データを集計する際に、固有の情報を先に与えて、回答を誘導するものがあります(アンケートなどでは現在もこのような手法が使用されていると聞きます)。最近よく見るのは、自分が応援していない側の顔写真を、あえてひどいものを使い、印象操作をする手法。応援しているほうの顔写真はアップで、複数回使うなど、やり方は巧妙になっているように思います。最初の話と矛盾するようですが、我々が普段見る、情報は、「取捨選択」され「選別」され特に消費者の「ニーズに沿って色付け」されたものが実に多いのです。「解釈」や「評価」「価値判断」を巧妙に「ある方向に」導くことが意図されています。その典型は、ステルスマーケティング(ステマ)でしょう。消費者の判断を鈍らせる、消費者の判断を引っ張る事を意図して秘密裡に「無機質な情報・データ」を提供しているかのように装う手法が展開されているのです。その是非は割くとしても、そのようなデータを見る際、いかに自分自身が「解釈」や「評価」「価値判断」を誤った方向に導かれていないか、慎重になる必要があります。特に、現代は、新聞・テレビの情報に加え、ネット情報も溢れており、データ分析者やデータ解釈者のバイアスに基づく決めつけの強い情報もあります。これまで以上に慎重な態度が必須でしょう。
さて、データを見るのも、怖くなってきました。前置きが長くなりましたが、「③歴史を読む」というのが私なりの回答です。例えば、文化祭で何か出し物を出す場合、過去にどんな出し物があったか、探します。それと同じように、歴史を読む、というのは、これまで我々が生きてきた中で、どのような悩みが共有されていたのかを知る作業です。私が言う「歴史を読む」というのは「本を読む」という作業とほとんど同義です。今起きていること、それが「正しい」とか「間違っている」とか賛否が割れるようなものなら、「正解がない」ことも多いでしょう。その際、正解のない物事にどうやって折り合いをつけるか。どっちつかずにならずに、より正しいほうを、応援することができるか。歴史を勉強することは、皆さんが、受験勉強で必要だから学ぶものではなく、(それはそれで、続けてください。それも大事です)本来は、自分で物事を考えるために行うもの、それを自ら一生涯をかけて学ぶべきものです。今、起こっている問題の歴史的な位置づけを探る。これは「物事を相対化する」事と言い換えることができます。「物事を相対化する」というのは、全体の中に今回の問題を落とし込むこと、言い換えれば、いま問題になっている事例がどんなベクトルで出てきたか探り、この後、どっちのベクトル方向に進むかを見極めることです。更に言い換えれば、「物事を相対化する」は、よく皆さんも聞くフレーズ、「考える」という作業にほかならないのです。少し話が変わりますが、パズルの一部をじっと見ていてもパズルは完成しません。パズルの枠全体を見て、一つのパズルの位置づけを探ります。パズルに限らず、「今、起きている問題」の全体のパーツを見てみないと、目の前の問題ばかりに気を取られ、細かい議論に終始してしまい、「結局、何を議論していたっけ?」と大局を見失ってしまいがちです。小さな山でも、「さあ登ろう」と登山口の前に立つと、「結構、勾配がきついな」「どこまでこんな坂が続くんだろう」と、大変そうに思うものです。全体の地図、全体の地形、入口からゴールまでの道のり、が最初にわかれば、ゴールが見えなくても、登山を始めることができます。そして、登ってみると、「案外、楽勝だった」ということも多いはず。自分が何かのトラブルにぶつかった時も、「これは知らない山の登山口に立っている状態だ」「登山は最初、変に大変だと思ってしまうものだ」と考え、いったん、目の前の問題から離れてみる。そして、これまでこのような問題が過去になかったか、現代史や近代史、さらに遡って本を読んでみる。歴史を学ぶ。過去、主人公が悩んだ末に解決に導いた手法は、今、あなたがトラブルを相対化するにあたり、大変示唆に富むものとなるはずです。歴史に関わる本を日常的に読む事です。後は、今回の問題となっている事例で、どうなるか、思考実験をするだけです。その際は仮説を立てることが有効でしょう。さきほども説明したように、データはデータにすぎません。歴史も一つのデータですから、歴史を知っただけでは、「解釈」や「評価」や「価値判断」を代行してくれるわけではありません。一時期、ビッグデータを処理するAIがあれば、なんでも解決できる、という幻想が、流行りました。しかし、AI技術を分析すると、単にコンピュータは、データを集めて、統計的に「それっぽいもの」を抽出しているにすぎません。「それっぽいもの」と人間の「判断」とは相いれないでしょう。AIは、過去のデータ(教師データ)を参考にしているだけですから、過去にはない、ドラスティックな判断に、ビッグデータの判断はあてになりません。話を戻すと、仮説というのは結論を先に予想して、「こうなるだろう」という部分を先に考えておくことです。誤解を恐れずにいれば、歴史を踏まえて先入観を持って結論を出してしまう。間違っているかもしれないけど、とりあえず「●●は正しい」または「●●は間違っている」という主張に肩入れしてみるということです。肩入れしてみると、その主張が、どのあたりで限界に達するかがわかります。誤解を恐れずにいれば、どんな主張にも「限界」があります。ある主張が(先輩、先生の話、上司の言い分、弁護士、政治家の主張なんでもいいですが)、無謬(むびゅう=何らの誤りもないこと)であることは、あり得ません。少し話が変わりますが、突き詰めていくと、完璧だと思えた主張も、行き詰ったり矛盾したり、バランスを失ったりします。「アベノミクス」も市場にお金を投入することで、経済を活性化させる作用があり、それにより企業にもお金が回ることは間違いないでしょう。しかし、市場にお金を回しても、本質的に、「国のチカラが付いた」といえるわけではありません。国のチカラというのは端的にいえば、一個人の生み出すお金と企業の生み出すお金の総量を指します。アベノミクスにより、市場にお金をジャブジャブにしても、一個人の能力や企業の能力が上がるわけでありません。その意味で、アベノミクスが一個人の生み出すお金、企業の生み出すお金の総量、抽象的にいえば、「付加価値」をどれだけ生み出したかは、疑問です。話を戻しますが、歴史を踏まえて、仮説を立て、自分なりの決断をする。そして、決断しても、予想される限界が見えたら積極的に方針を変更する。以上が私なりの「問題解決の方法論」「考える」という事の方法論です。
本の読み方について補足ですが、「歴史を読む」というのは「本を読む」と同義と言いました。補足すると、テレビで「歴史番組を見ている」というのも悪くないと思います。ただし、番組構成上、時間が限られていますから、大事な主人公の悩みの部分が省略されていたり、歴史が巧妙に編集され、番組の都合の良いように改変されていたりする例も珍しくないので、「本を読む」ほうが無難です。確かに本を読むことも過去の資料が美化されている側面があるかもしれません。しかし、著者は通常、膨大な資料から執筆している場合が多く、かつ、現代史という歴史を例にとると、日本や世界で何千人(何万人?)が書いている分野です。系統の異なる別の著者の作品を10冊以上読めば、本当のところがわかることが多いというのが私の感覚です。
政治の話のついでですが、皆さんは、18歳で、選挙権を「与えられる」事になりました。「自分の一票なんて小さすぎて影響がない」「多数決で決める民主主義は面倒」、「カリスマ的な人気者に任せたほうがいい」と考える人もいるかもしれません。実際、大人でもそのように考えている人は多いのかもしれません。しかし、我々の身近にあるトラブルの根本には、(ネット)社会のルールが未整備だったり、差別が是認されていたり、例えば、いじめの防止が図られるルールが曖昧だったりと、社会のルールそのものが変化せず稚拙なために起こっていることも多く存在します。選挙権は、社会のルールをより良い方向に変える権利ですから、ぜひ身の回りのことに関心を持って、権利を行使していって下さい。ただ、権利行使の前提として、社会の仕組みを知っておく必要があります。私もこの中標津高校卒業して、北海道大学に進学し、イロイロなことを学びました。大学ではなくとも、みなさんもできることなら、外の世界に飛び出してください。そして、この街の問題を外にでて考えてみてください。更に、この日本社会を考えるために、海外に行ってみてください。この社会の仕組みがいかに特殊か、微妙なバランスで成り立っているか。外に出ることで、この街や北海道、そして日本社会の仕組みを「相対化する」ことができるでしょう。そして、いつか日本、北海道、この地元に戻ってきて、国や北海道、そしてこの街を元気にする知恵を出してもらえないかなと思っています。
偉そうなことをしゃべりすぎました。スティーブジョブズも、昨年、若くして亡くなった瀧本哲史さんも、同じようなことを言っていました。雑な要約ですが、若者が未来を創る、ということです。私より上の世代は私より早く死ぬでしょう。私もみなさんより早く死にます。死ぬことは悲しい、という話ではなくて、死ぬことは、素晴らしい発明なのです。死ぬことで、新しいことが可能になる。先ほど、天動説の話をしましたが、天動説が消滅したのは、天動説を唱えていた大人がみな年を取って死んだからだそうです。大人が押し付けてきた「常識」と言われるものは、いつかなくなり、みなさんの時代になる。常識に縛られず、世界をより良い方向に変えていってください。選挙権が「与えられた」と先ほど言いました。でも「与えられた」「与えた」という表現自体、現在の常識を前提にしているからです。常識は変わります。変えたほうがいいものもたくさんあります。常識を変えるために何が必要か。それは今日、何度も言いました。「歴史を知る事」、また、「歴史を知る」中で、また「外に」出て、「物事を相対化する事」です。皆さんの未来に期待をしています。
良くテレビで、「●●は正しい」とか、「●●は間違ってる」という話がでてきます。それが実際にどうか。どう判断したらよいか。皆さんが今後、就職した現場でも、「ある人は、これが正解!」といい、また別の人は、「これは間違い!」という場面に出くわすでしょう。そんなとき、どっちの意見が良いか、はたまた、第三の意見を出すか。今後、職場などで意見を求められたとき、皆さんが、決断を下すことが必要となります。方法論としては、複数あります。まず、考えられるのは、「①信頼できる人に聞く方法」です。この方法は控えめに言って最善解ではありません。ある分野に秀でている人でも、あなたが「今、知りたい問題」に適切な意見をくれるかは分かりません。話はそれますが、人にはバイアスがあります。目に見えない偏向性、言い換えれば、自分の判断が、知らず知らずに自分の思い入れのある方向に引っ張られる現象です。特に問題なのは、それがその人自身も気が付いていない事。バイアスはすべての人にあります。私にもそうですし、どんな人でも、そうです。昔、天動説が唱えられ、ガリレオが地動説を唱えても、天動説の学者は結局、自説を変えませんでした。本来、科学的な思考ができる人でも間違いを起こす、人類はバイアスからは逃れられないのです。客観的な正解のある物事についても人は(簡単に)騙されてしまうのです。そう考えると、正解のない物事についてはより慎重になるべきでしょう。(フェイクニュースを含む)「信頼できそうな人の話」というのは、将来、あなたたちの社会を苦しめるかもしれません。昔よりSNSの発達した現代、そして更に発達する将来は、その影響はより強く、あらゆる方面に(悪)影響を及ぼすでしょう。
「信頼できる人に聞く。」は少なくとも最善解ではないことは分かりました。じゃあどうしましょう。「②データを集める」という方法論はどうでしょうか。「●●は正しい」「●●は間違ってる」という双方のデータを集めて検証するやり方です。データが適切なら最善解を導けるかもしれません。しかし、データ至上主義には、落とし穴があります。データはどこまで調べても、無機質な情報の集合体でしかありません。データはデータ。数値は数値。そこに、結論として出す判断の根拠となる「解釈」や「評価」「価値判断」が加えられているものではありません。むしろデータ至上主義は厄介な副産物を生みます。それは、いわゆる「統計のウソ」と呼ばれる、データの見方を(故意に)誤らせる手法が介入することが多いことです。古典的な方法としては(ア)円グラフの一部を大きくしたり、(イ)棒グラフの数値に中略を加えたり、するものがあります。(ウ)データを集計する際に、固有の情報を先に与えて、回答を誘導するものがあります(アンケートなどでは現在もこのような手法が使用されていると聞きます)。最近よく見るのは、自分が応援していない側の顔写真を、あえてひどいものを使い、印象操作をする手法。応援しているほうの顔写真はアップで、複数回使うなど、やり方は巧妙になっているように思います。最初の話と矛盾するようですが、我々が普段見る、情報は、「取捨選択」され「選別」され特に消費者の「ニーズに沿って色付け」されたものが実に多いのです。「解釈」や「評価」「価値判断」を巧妙に「ある方向に」導くことが意図されています。その典型は、ステルスマーケティング(ステマ)でしょう。消費者の判断を鈍らせる、消費者の判断を引っ張る事を意図して秘密裡に「無機質な情報・データ」を提供しているかのように装う手法が展開されているのです。その是非は割くとしても、そのようなデータを見る際、いかに自分自身が「解釈」や「評価」「価値判断」を誤った方向に導かれていないか、慎重になる必要があります。特に、現代は、新聞・テレビの情報に加え、ネット情報も溢れており、データ分析者やデータ解釈者のバイアスに基づく決めつけの強い情報もあります。これまで以上に慎重な態度が必須でしょう。
さて、データを見るのも、怖くなってきました。前置きが長くなりましたが、「③歴史を読む」というのが私なりの回答です。例えば、文化祭で何か出し物を出す場合、過去にどんな出し物があったか、探します。それと同じように、歴史を読む、というのは、これまで我々が生きてきた中で、どのような悩みが共有されていたのかを知る作業です。私が言う「歴史を読む」というのは「本を読む」という作業とほとんど同義です。今起きていること、それが「正しい」とか「間違っている」とか賛否が割れるようなものなら、「正解がない」ことも多いでしょう。その際、正解のない物事にどうやって折り合いをつけるか。どっちつかずにならずに、より正しいほうを、応援することができるか。歴史を勉強することは、皆さんが、受験勉強で必要だから学ぶものではなく、(それはそれで、続けてください。それも大事です)本来は、自分で物事を考えるために行うもの、それを自ら一生涯をかけて学ぶべきものです。今、起こっている問題の歴史的な位置づけを探る。これは「物事を相対化する」事と言い換えることができます。「物事を相対化する」というのは、全体の中に今回の問題を落とし込むこと、言い換えれば、いま問題になっている事例がどんなベクトルで出てきたか探り、この後、どっちのベクトル方向に進むかを見極めることです。更に言い換えれば、「物事を相対化する」は、よく皆さんも聞くフレーズ、「考える」という作業にほかならないのです。少し話が変わりますが、パズルの一部をじっと見ていてもパズルは完成しません。パズルの枠全体を見て、一つのパズルの位置づけを探ります。パズルに限らず、「今、起きている問題」の全体のパーツを見てみないと、目の前の問題ばかりに気を取られ、細かい議論に終始してしまい、「結局、何を議論していたっけ?」と大局を見失ってしまいがちです。小さな山でも、「さあ登ろう」と登山口の前に立つと、「結構、勾配がきついな」「どこまでこんな坂が続くんだろう」と、大変そうに思うものです。全体の地図、全体の地形、入口からゴールまでの道のり、が最初にわかれば、ゴールが見えなくても、登山を始めることができます。そして、登ってみると、「案外、楽勝だった」ということも多いはず。自分が何かのトラブルにぶつかった時も、「これは知らない山の登山口に立っている状態だ」「登山は最初、変に大変だと思ってしまうものだ」と考え、いったん、目の前の問題から離れてみる。そして、これまでこのような問題が過去になかったか、現代史や近代史、さらに遡って本を読んでみる。歴史を学ぶ。過去、主人公が悩んだ末に解決に導いた手法は、今、あなたがトラブルを相対化するにあたり、大変示唆に富むものとなるはずです。歴史に関わる本を日常的に読む事です。後は、今回の問題となっている事例で、どうなるか、思考実験をするだけです。その際は仮説を立てることが有効でしょう。さきほども説明したように、データはデータにすぎません。歴史も一つのデータですから、歴史を知っただけでは、「解釈」や「評価」や「価値判断」を代行してくれるわけではありません。一時期、ビッグデータを処理するAIがあれば、なんでも解決できる、という幻想が、流行りました。しかし、AI技術を分析すると、単にコンピュータは、データを集めて、統計的に「それっぽいもの」を抽出しているにすぎません。「それっぽいもの」と人間の「判断」とは相いれないでしょう。AIは、過去のデータ(教師データ)を参考にしているだけですから、過去にはない、ドラスティックな判断に、ビッグデータの判断はあてになりません。話を戻すと、仮説というのは結論を先に予想して、「こうなるだろう」という部分を先に考えておくことです。誤解を恐れずにいれば、歴史を踏まえて先入観を持って結論を出してしまう。間違っているかもしれないけど、とりあえず「●●は正しい」または「●●は間違っている」という主張に肩入れしてみるということです。肩入れしてみると、その主張が、どのあたりで限界に達するかがわかります。誤解を恐れずにいれば、どんな主張にも「限界」があります。ある主張が(先輩、先生の話、上司の言い分、弁護士、政治家の主張なんでもいいですが)、無謬(むびゅう=何らの誤りもないこと)であることは、あり得ません。少し話が変わりますが、突き詰めていくと、完璧だと思えた主張も、行き詰ったり矛盾したり、バランスを失ったりします。「アベノミクス」も市場にお金を投入することで、経済を活性化させる作用があり、それにより企業にもお金が回ることは間違いないでしょう。しかし、市場にお金を回しても、本質的に、「国のチカラが付いた」といえるわけではありません。国のチカラというのは端的にいえば、一個人の生み出すお金と企業の生み出すお金の総量を指します。アベノミクスにより、市場にお金をジャブジャブにしても、一個人の能力や企業の能力が上がるわけでありません。その意味で、アベノミクスが一個人の生み出すお金、企業の生み出すお金の総量、抽象的にいえば、「付加価値」をどれだけ生み出したかは、疑問です。話を戻しますが、歴史を踏まえて、仮説を立て、自分なりの決断をする。そして、決断しても、予想される限界が見えたら積極的に方針を変更する。以上が私なりの「問題解決の方法論」「考える」という事の方法論です。
本の読み方について補足ですが、「歴史を読む」というのは「本を読む」と同義と言いました。補足すると、テレビで「歴史番組を見ている」というのも悪くないと思います。ただし、番組構成上、時間が限られていますから、大事な主人公の悩みの部分が省略されていたり、歴史が巧妙に編集され、番組の都合の良いように改変されていたりする例も珍しくないので、「本を読む」ほうが無難です。確かに本を読むことも過去の資料が美化されている側面があるかもしれません。しかし、著者は通常、膨大な資料から執筆している場合が多く、かつ、現代史という歴史を例にとると、日本や世界で何千人(何万人?)が書いている分野です。系統の異なる別の著者の作品を10冊以上読めば、本当のところがわかることが多いというのが私の感覚です。
政治の話のついでですが、皆さんは、18歳で、選挙権を「与えられる」事になりました。「自分の一票なんて小さすぎて影響がない」「多数決で決める民主主義は面倒」、「カリスマ的な人気者に任せたほうがいい」と考える人もいるかもしれません。実際、大人でもそのように考えている人は多いのかもしれません。しかし、我々の身近にあるトラブルの根本には、(ネット)社会のルールが未整備だったり、差別が是認されていたり、例えば、いじめの防止が図られるルールが曖昧だったりと、社会のルールそのものが変化せず稚拙なために起こっていることも多く存在します。選挙権は、社会のルールをより良い方向に変える権利ですから、ぜひ身の回りのことに関心を持って、権利を行使していって下さい。ただ、権利行使の前提として、社会の仕組みを知っておく必要があります。私もこの中標津高校卒業して、北海道大学に進学し、イロイロなことを学びました。大学ではなくとも、みなさんもできることなら、外の世界に飛び出してください。そして、この街の問題を外にでて考えてみてください。更に、この日本社会を考えるために、海外に行ってみてください。この社会の仕組みがいかに特殊か、微妙なバランスで成り立っているか。外に出ることで、この街や北海道、そして日本社会の仕組みを「相対化する」ことができるでしょう。そして、いつか日本、北海道、この地元に戻ってきて、国や北海道、そしてこの街を元気にする知恵を出してもらえないかなと思っています。
偉そうなことをしゃべりすぎました。スティーブジョブズも、昨年、若くして亡くなった瀧本哲史さんも、同じようなことを言っていました。雑な要約ですが、若者が未来を創る、ということです。私より上の世代は私より早く死ぬでしょう。私もみなさんより早く死にます。死ぬことは悲しい、という話ではなくて、死ぬことは、素晴らしい発明なのです。死ぬことで、新しいことが可能になる。先ほど、天動説の話をしましたが、天動説が消滅したのは、天動説を唱えていた大人がみな年を取って死んだからだそうです。大人が押し付けてきた「常識」と言われるものは、いつかなくなり、みなさんの時代になる。常識に縛られず、世界をより良い方向に変えていってください。選挙権が「与えられた」と先ほど言いました。でも「与えられた」「与えた」という表現自体、現在の常識を前提にしているからです。常識は変わります。変えたほうがいいものもたくさんあります。常識を変えるために何が必要か。それは今日、何度も言いました。「歴史を知る事」、また、「歴史を知る」中で、また「外に」出て、「物事を相対化する事」です。皆さんの未来に期待をしています。