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弁護士 小田 康夫
2016.10.04
2016.10.04
あなたに「おかえり。」と言ってくれる人はいるか。
私は高校まで実家で暮らしていた。
「ただいま。」と言えば、「おかえり。」と言ってくれる家族がいた。
実家に帰れば、今でも、そんな調子で言葉が返って来る。
「ただいま。」とは、お待たせしました、遅くなったね、心配させてごめんね、ただ今、無事に戻りました、の略だとどこかに書いてあった。
そして、「おかえり。」とは、無事に帰ってきたのね、良かった、帰りをずっと待っていたよ、の略だと。
あなたに「おかえり。」と言ってくれる人はいるか。
そんな人がいるのなら、それは幸せなことだと思う。
ただ、そんな人がいない家庭もある。
子どもは、経験が乏しいから、良いことと悪いことの区別がつきにくい。
その区別を誤って悪いことをしてしまうこともある。
繰り返し悪いことをしているうちにどんどんそこから抜け出せなくなることもある。
子どもには子どものコミュニティがあり、そこでできた仲間は、それが悪い仲間であっても裏切ることができなかったりする。
私には悪いことをしたとき、自分を叱る親がいた。
何も告げずに、遅く帰ったら、お尻を叩く親だった。
親が叱るときは怖かった。
でもいつもは優しかった。
どんなに遅く帰っても、夜ご飯は用意されていた。
それは温かくて、おいしかった。
親の私に対する言動には、愛情の前提があった。
私は「親に叱られたくないと思って」というよりも、
「親に心配させたくないと思って」できるだけ早く家に帰った。
早く帰れば親は安心した。
そんな親の態度が私は嬉しかった。
でも、もし・・・
私に「おかえり。」と言ってくれる親や祖父母がいなかったら、どうだったか。
自分の都合で叱りつける、愛情の前提のない親しかいなかったら、どうか。
家族のいない寂しさを埋めてくれる先生がいなかったら、今があったか。
私がそんな幼少期を過ごしていたら、
家に早く帰ろうとは思わなかっただろうし、
夜、街で、徘徊を繰り返していたかもしれない。
場合によっては、大きな罪を犯していたかもしれない。
今、生きにくさを感じている子がいたら、その生きにくさ原因は、「おかえり。」と言ってくれる家族がいないことにあるかもしれない。
そんな子には、その生きにくさの原因はあなたのせいじゃないよ、と伝えたい。
どうしてもだめだったら逃げ出してもいいんだよ、と。
そして、大人の人には、想像して欲しい。
非行を繰り返す未成年者が大きな罪を犯したとき。
もちろん、何の罪のない被害者に一番の苦しみがあって、被害者をないがしろにすることはできない。
でも、その未成年者だけが批判されれば済む話なのか。
さかのぼって、その子どもの生い立ちを考えずに、単純に批判できるの?
子どもには「おかえり。」と言ってあげられる家族はいたの?
周りの人は手を差し伸べてあげられなかったの?
子どもの親や先生だけのせいなの?
それを放置した「社会」には何の罪もないの?
我々が罪を犯していないのは、たまたま運が良かっただけなんじゃないの。
人はみな生かされて生きていく。
失敗をしても立ち直れる社会にしたい。
失敗を批判するのではなく、挑戦を応援する社会に。
「ただいま。」と言えば、「おかえり。」と言ってくれる家族がいた。
実家に帰れば、今でも、そんな調子で言葉が返って来る。
「ただいま。」とは、お待たせしました、遅くなったね、心配させてごめんね、ただ今、無事に戻りました、の略だとどこかに書いてあった。
そして、「おかえり。」とは、無事に帰ってきたのね、良かった、帰りをずっと待っていたよ、の略だと。
あなたに「おかえり。」と言ってくれる人はいるか。
そんな人がいるのなら、それは幸せなことだと思う。
ただ、そんな人がいない家庭もある。
子どもは、経験が乏しいから、良いことと悪いことの区別がつきにくい。
その区別を誤って悪いことをしてしまうこともある。
繰り返し悪いことをしているうちにどんどんそこから抜け出せなくなることもある。
子どもには子どものコミュニティがあり、そこでできた仲間は、それが悪い仲間であっても裏切ることができなかったりする。
私には悪いことをしたとき、自分を叱る親がいた。
何も告げずに、遅く帰ったら、お尻を叩く親だった。
親が叱るときは怖かった。
でもいつもは優しかった。
どんなに遅く帰っても、夜ご飯は用意されていた。
それは温かくて、おいしかった。
親の私に対する言動には、愛情の前提があった。
私は「親に叱られたくないと思って」というよりも、
「親に心配させたくないと思って」できるだけ早く家に帰った。
早く帰れば親は安心した。
そんな親の態度が私は嬉しかった。
でも、もし・・・
私に「おかえり。」と言ってくれる親や祖父母がいなかったら、どうだったか。
自分の都合で叱りつける、愛情の前提のない親しかいなかったら、どうか。
家族のいない寂しさを埋めてくれる先生がいなかったら、今があったか。
私がそんな幼少期を過ごしていたら、
家に早く帰ろうとは思わなかっただろうし、
夜、街で、徘徊を繰り返していたかもしれない。
場合によっては、大きな罪を犯していたかもしれない。
今、生きにくさを感じている子がいたら、その生きにくさ原因は、「おかえり。」と言ってくれる家族がいないことにあるかもしれない。
そんな子には、その生きにくさの原因はあなたのせいじゃないよ、と伝えたい。
どうしてもだめだったら逃げ出してもいいんだよ、と。
そして、大人の人には、想像して欲しい。
非行を繰り返す未成年者が大きな罪を犯したとき。
もちろん、何の罪のない被害者に一番の苦しみがあって、被害者をないがしろにすることはできない。
でも、その未成年者だけが批判されれば済む話なのか。
さかのぼって、その子どもの生い立ちを考えずに、単純に批判できるの?
子どもには「おかえり。」と言ってあげられる家族はいたの?
周りの人は手を差し伸べてあげられなかったの?
子どもの親や先生だけのせいなの?
それを放置した「社会」には何の罪もないの?
我々が罪を犯していないのは、たまたま運が良かっただけなんじゃないの。
人はみな生かされて生きていく。
失敗をしても立ち直れる社会にしたい。
失敗を批判するのではなく、挑戦を応援する社会に。